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第三十八話 (2008年8月)



毎日暑い日が続いています。京都の夏は例年蒸暑くて大変なのですが、今年はそれにもまして連日30度をこえる猛暑ですので、お花の生けかえに走りまわっております。

さてそんな猛暑にも拘わらず元気に咲く花たちにパワーをもらいながら、新しいデザインのアイデアを考えているわけですが、その発想の源は果たしてどこにあるのかしら?とたまに自己分析をしてみます。
もちろんいつも述べています自然や植物自体の姿にヒントを得るのは大切なことですが、そればかりだとどうしても切り口が同じになる傾向があります。

そこで私はデザインが行き詰まってしまった時に新たな感性を刺激する方法として、ひとつ面白いアプローチをします。

まずは花の仕事の事は忘れて、自分の好きな趣味の分野のことばかり考えだします。私はモータースポーツが好きで、前にも述べましたようにミニチュアカー収集もします。最近のお気に入りは、そのモータースポーツで活躍するミニカー集めなのです。

真夜中あたりに少しワインでも飲みながら、集めたミニカーをしみじみと眺めているわけですが、そんな至福の時こそが新たなひらめきがあります。車の形やデザインからヒントを得るのかしらと思いきや、実はそればかりではないのです。

レースで使う車とはやはり競争する道具ですので、技術の進化の表れです。時代、いや極端に言いますと一戦一戦ごとにもデザインが違います。まさにその旬のデザインなわけです。私はその車たちが活躍している場面を思い浮かべ、スピードの極限へ挑むその切ないまでの瞬間の美しさを想像するのだと思います。そこでいよいよ花の登場です。

どこかに同じ美しさを私は感じ新たなデザイン発想へのモチベーションとなるわけです。なんだか自分のミニカー収集の正当化のようですね。そんなこんなで・・・また今月も何台かミニカーコレクションが増えました。

第三十七話 (2008年7月)



いよいよ蒸暑い京都の夏の始まりです。私も毎日、汗ぐっしょりなりながら生け花に走りまわっております。

また各所で祇園祭りのお囃子が聞こえ出し、毎年の事ながら少しウキウキする7月です。17日の山鉾巡行はちょうど私の事務所のそばを通りますので、毎年見るとはなしに見ています。有名な祇園祭りの山鉾ですが、最近の私は、鉾に飾られている装飾品の織物や山鉾の上に飾ってある美術品よりも、全体のフォルムに興味があります。

もちろん装飾はどれも美しく、雅であり豪華な山鉾は素晴らしいです。まさに動く美術館のようです。下には大きな車輪(鉾車)があり横に胴掛という飾りあります。囃子方の方たちが乗られる上には大きな屋根もあります。

その屋根より天に向かって立つ大きな柱の上の和縄でまかれた真木(しんぼく)の一番先を鉾頭といい、鉾それぞれの特徴ある飾りが付きます。全体のフォルムを離れて見た時、鉾の車体と真木の上の鉾頭のバランスの格好良さには、とにかく参ってしまいます。ちょうど私が花を生けている時に思うバランス感覚に似た感じがするのです。

その花というのも装飾的な生け花というよりは、神仏に奉る感じの花の生け方に似ている気がします。ただ精神的な表現と言っても、思いが強いだけでは表現力が弱いという事があると思います。おそらく山鉾は、先人たちが神々に奉る思いで作られたものだと思います。

いつの時代にも人々を魅了したその形は精神性はもちろんのこと、やはり見た目にも美しいバランス感覚とデザイン力があるからでしょう。私もそこに惹かれ、先人が作り出した祭事の思いのなかに現代のモダンを感じたのでしょうか。

第三十六話 (2008年6月)



京都も梅雨入りし、雨に濡れた町家の瓦がしっとり美しいです。

鬱陶しい季節でもありますが、私はわりに好きな風情としています。それは生け花も出来上がると霧吹きをします。露があると色も鮮やかで、植物の生命感も増すと思えるからでしょうか。

さて先月は私の趣味のミニカーの話しからカーデザインの事を述べました。私自身も、もう少し勉強がしてみたく、イタリアのカロッツェリア(自動車のデザインワークス)でスポーツカーの名門『FERRARI』をデザインされていました、奥山清行氏の著書[フェラーリと鉄瓶]を読んでみました。

さすがに自分の好きな分野の本ですから、あっという間の読破でした(^_^)v

すごく共感を覚える部分が多く、ものづくりにおけるデザインの大切さをあらためて感じました。

私の場合、もともとは池坊流でお流儀の生け花を勉強して、また独自に自然界と生け花について勉強して今日に至ったわけです。 しかし時に思うことは、華道やフラワーデザインの影響よりも、最近の私はイテリアや工業デザイン・建築デザインからの啓示を受けることが多いように思います。

本のなかで述べられていました言葉に、『デザインの破綻』というのがありました。花を生けていても同じく、面白いであろうと思いデザインに凝ったつもりが、なにかまとまりのつかないようになる時などは、まさに破綻していたわけです。

もちろん花という命あるものと向かいあうことは「命あるものが自然にある姿こそが美しい」という基本から考えてデザインする事が大事なことです。そこでデザインが破綻していたのは、まだまだ命ある自然への思いの無さがあったのかも知れません。

そんなふうに考えていると、今やあちこちで問われる、地球環境の保全にも考えが及んだ私でした。

第三十五話 (2008年5月)



さて5月、爽やかな季節となり目に青葉が美しく写ります。

最近の私は時間あると趣味のミニチュアカー収集にはまっております。ただ無暗に集めるわけではなく、やはりデザインの面白いものに目が行きます。年代・国籍も問わずにオークションの画面や、ミニカーブログなどをネットサーフィンをしながら情報収集して、これぞと思うミニカーを探すのは、いい気分転換になります。

もともとカーデザイン自体にも興味があったので、ひとつの拘りや傾向は、私独自のものはあるようです。

それは必要とされるデザインの美しさ。機能をより良くするために生まれたデザイン。工業デザインにとって必要不可欠な考え方です。シンプルな形であっても人に納得させるものが、そこにはあると思います。

ところがですよ、最近の発見なのですが、ちょっとやり過ぎてデコラティヴになったデザンから、余計なものを削ぎ落とした感じのものに面白さを見つけた気がします。気がすると言うのは、これがなかなか見つけにくいのです。

もともとシンプル一番という目線であっただけに、デザインしましたよ!と言うのは避けていたからだと思います。ましてやデザイナーがデザインしすぎて、それから無駄を引いたものを探すなんて、まあ私のひとりよがりみたいですね。

以前のエッセイで生け花のシンプルな表現について書きました。1+1=2を生ける為に100-98=2を見つけるという話しです。花を生ける時に一度は無茶なやり過ぎのデザインをして、後から引き算をすることも面白い表現になる。と言いました。

ただ花を生けることでは、そこに自然の姿が介入するので、デザインセンスを及ばすこともなく、形ができてくるものです。 果たして工業デザインをするデザイナーの方たちは、どこにその落ち着きどころを見出だすのでしょうか?

ミニカー集めをしながら、デザインの奥深さに感心し、また新たな感性を刺激されました。

第三十四話 (2008年4月)



四月になり観光都市・京都はどこへ行っても大勢の人で賑わっています。新しい景観条例も施行され、看板や街の明かりなどもずいぶん京都らしく、はんなりとした雰囲気になってきたようです。

市内中心部などの古い京町家の再生はいたる所にみられ、カフェやインテリアショップなどに新たにRe デザインされる様は大変面白いです。もちろん一から新しく建てられた建物もありますが、鉄骨を組みながらも、出来上がってみると前からそこにあるが如く京町家風に仕上がっています。

ただ、あまりにも京都らしさや京町家にしようという意識だけが強すぎて、何だか張りぼての映画のセットのような感じになってしまうのは残念に思います。京都の夜はネオンや明かりの規制もあるので、最近はしっとりとした照明が増えてきました。

祇園の細い路地の奥にある料理屋さんなどに、夕暮れ時明かりが灯ると本当に雅な世界で、何気ない風景なのですが、すぐに雑誌の京都特集の一ページの出来上がりです。


街全体がデザインされて美しくなっていくのは良いことだと思います。そんな京の街を散歩していると、かえってそこに住まう人々の生活感が、より一層季節や風情を表現してくれていることに気が付きました。

京町屋風のお店の横の路地奥にはお地蔵さんがあったり、季節の花の植木鉢が置いてあったりします。これからの時期だとあやめや鉄線、紫陽花などの植木鉢が無造作にならんでいたりします。街がデザインされた分、その無造作であることが風情を感じる美しさに思われます。美しい観光地の夜のライトアップ、それに対し路地奥の家々の蛍光灯の青白い光の下にボーと浮かび上がって見える植木の花たち。

そんなひっそりと静かな姿に安らぎを感じたりもします。私も美しいデザインで花を生けることばかりにとらわれず、どこか自然体で、自分の生活の中から生まれるゆっくりとしたゆるい感じのデザインも大切にしたいなと思います。
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第三十三話 (2008年3月)



いよいよ春の訪れですが今年は寒さがまだまだ厳しく、京都もいまだに雪のちらつく日々です。春の催事のひとつとして、私の花会を2月に催しました。各種の椿を集め、それぞれの美しさ・個性を引き出しながら生けるという贅沢な花会でした。

いつもの京町屋をお借りしての花会なのですが、花を生けること、そしてその生けあがった作品を飾るということ、その両方が私の花の表現です。今回は飾ることの面白さや難しさを考えてみました。花に限らず作品の展示は、ただそこに置けばよいというものではなく、やはり緩急のつけ方や、見せ場の出し方にそのおもしろさがあると思います。

私も美術館や博物館に出かけていき、展示物はもちろん、その配置や照明にも目を凝らし確認していきます。そこで思うのですが、空間におけるものの配置は花を生けるバランスの取り方に似ているところがあります。という事は花会の出来上がった作品を飾る時は、作品ひとつひとつをその町屋にまた生けてゆく作業のようなものかもしれません。

言ってることがちょっとややこしいですね。とどのつまり私はいつも花を生けることに結び付けてしまうようです。しかし花だけにスポットを当てるのではなく、花器と空間、そしてそれを見る人までも頭の中でコーディネートしていくのは楽しいことです。出来上がった空間の中に一輪の椿が浮かぶ姿を私は花会で目指していたと思います。
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第三十二話 (2008年2月)



立春も過ぎましたが、今年の京都は寒い日が続いております。

そんなわけで私、休日は外出せず読書などをして過ごしております。ある日以前から持っておりましたAERA(アエラ)の「日本のデザイナー」という本をパラパラと読みかえしておりました。建築・プロダクト・グラフィックスからインテリア・プロデュースまで【デザイン】について書かれている本です。私の花を生ける仕事においてもデザインするという作業にあい通ずる部分もあり、他ジャンルの仕事ですがとても勉強になります。

さてそこで、今一度「花をデザインする」ということはどういうことなのかと考えました。

花や木は自然が育て、その姿なりにすでに個性あるデザインがされて生まれてきています。私もそれに重きをおき、自然の美しさを尊重して花を生けていきます。

そうして生けあがった作品は季節や自然の姿をデザインしたということだと思います。また、それとは違う方向から花を見てみます。色でありフォルムに重点を置き、その花が自然の中で咲く姿は2番目において考えます。

例えば花びらの静かな色に注目したり、茎の伸び行くフォルムに着目します。それから生ける場所(空間)との調和を考え、まさしくデザインする作業を始めるわけです。自然の姿を主とした場合、色・形を主とした場合、両方とも生け花であることは確かなのですが、出来上がった作品には違いが出てきます。

私はデザインの本をめくりながら、後者の作品はプロダクト的な要素もあり、またインテリアとして面白い花なのだと思っています。ただ最初にもお話した自然を尊重する気持ちがあってこその生け花でもあるわけで、まだまだ「花をデザインする」とは奥深いところがあると思います。今年はこの「デザイン」というキーワードで作品を生けていこうと思っています。

さて・・・うまくデザインできるかしら・・・。
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第三十一話 (2008年1月)

第三十一話



新年明けましておめでとうございます。
明けてねずみ年、干支の最初の年の始まりです。

元旦には新しい年の指針を考え静かに過ごす・・・などと書きだしたいところなのですが、実のところもう3日には担当しているお店の正月花を生けなくてはならず、元旦からそわそわと花の準備を考えたりしてしまいます。前もっておおよそのデザインは出来上がるのですが、花材を実際手に取って生けてみると、予定していた出来上がりとはがらりと変わることがあります。枝ぶりや花の開きや勢いをどう自分が感じるかによって、生け方をその場で決めるからです。これが実は苦しい作業ではなく、花のおもしろいところでもあります。

昨年より続けてまいりました私の「花の会」。その場で花を生けるところを見ていただく・・・そこで私が学んだ事は、花を生けることがただの即興的なパフォーマンスでは駄目だということです。まだまだ勉強不足な自分がいます。今年はもう少し「気」というものを感じながら花を生けてみたいです。その感覚をうまく言葉にして説明できないのですが、花・器・その場の空気と、それを繋ぐ「気」というものを感じることが出来ればなと思います。以前は花を目で見て、形や表現を整える事こそが美しい作品の第一歩だと思っていたのですが、今年は少し目で見ることだけに頼らず「気配感」を研ぎ澄ませ、より一歩、自分のモットーとしている【花はそこにあるだけで美しい】と言うことを表現していければなと思っています。

今年も宜しくお願い致します。
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第三十話 (2007年12月)

第三十話

第三十話 拡大写真


2007年も最終月になりました。
今年は私にとって新たな楽しみができました。それは年初に一眼レフのカメラを手に入れたことです。もちろん以前より花の写真は撮影していたのですが、一眼レフにより一層写真の面白さを学び始めました。

今までの「花を生けて、写真を撮る」作業は記録としての写真だったように思います。一眼レフでの撮影は、ファインダーから作品を見てここぞと思うところにピントを合わせてシャッターを押す・・・この場合、完成した生け花を記録でおさえるというより、この作品の一番のこだわりの部分に最終の一手を入れている気がします。花を生けることから撮影のシャッターを切るまでが作品のひとつになるんだなと思い、写真で見る生け花の面白さに惹かれていきました。

そんなわけで今年はたくさんの写真を撮りました。メカに弱い私はカメラの設定うんぬんは曖昧で、どちらかと言うと感に頼った写真です。そんな私がカメラを手に取り、光の加減や偶然のアングルで自分が思ったものと違う美しさを見せてくれる花が撮れたときなどは「奇跡の一枚だ」と、一人喜んでいます。
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第二十九話 (2007年11月)

第二十九話

第二十九話 拡大写真


去る10月24日に、私の個展「花の会」を催しました。

今年は自分としても「花を生ける」ことを見直してみたく、季節ごとに個展を開いています。春・夏・秋と、今回で3回目の花会でした。

私の個展は作品展ではなく、来ていただいた皆様の前で花を生けるところを見ていただきます。あらかじめ生ける作品をデザインしているわけではなく、その場で、即興で生けていきます。

前日に花屋さんで旬の綺麗な花材をそろえ、会場にて持ち合わせた花器にその場で試行錯誤しながら「生けていく様」をお見せするわけです。今回は知人の方が特別に素晴らしい花器を貸し出してくださり、いつもより少し緊張しながら花を生けました。

春・夏と続けて来てくださっているお客様のひとりが私の花を生ける様子を「パフォーマンス的なイベントではなく、花と私が語り合いながら生けていく様が私らしい」と評してくださりました。

私も自然体で生けておりますので、普段と同じように手にした花を見て思わず口から「綺麗な蕾が付いていますね。この花の見所はやっぱりここかな~?」などど、つぶやきながら生けています。その様子を「花と語っている」と言う風に見ていただいたようです。

出来上がった作品の良し悪しはひとつもありません。技術やうまく生けるテクニックの発表の場ではなく「そこに花がある」という場面が、来てくださった皆様の癒しになる花の会になればと・・・これからも自分のライフワークとして続けていきたいなと思っています。
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第二十八話 (2007年10月)

第二十八話

第二十八話 枝をさばく前 第二十八話 枝をさばきすっきりさせ、口元にグリーンを入れたもの 第二十八話 口元のアップ。秋明菊にピントを合わせて見た場合


10月の末、私の事務所の近くに和小物のセレクトショップ「京都屋」がオープンします。

そのワンブースで私の作った小さな生け花を展示販売することになりました。京都をイメージした小さな生け花を造花で表現するという新しい試みに挑戦してみました。

もちろん今までにも店舗ディスプレイや生花を使えない現場(例えばミュージアムなど)での造花の生け花の経験はありました。しかし今回の作品は、小さな空間に季節感と和のテイストを表現し、なおかつ生花のような生命感も持たせようとする少し難しい制作でした。

造花で生け花をする時は、花を生ける(この場合生花)こととは根本的に違う作業と考え方が必要です。

もちろん造花と生花では素材が全く別物。当たり前のことなのですが、水が必要でなく、また形も自分の思う枝ぶりや花の向きに整えやすいものです。だから自分の頭の中で自然の花姿を想像したものがそのまま作品に出てしまいます。

今回小さい作品を数多く作る過程で「何かが足りない」とふと考え込み、制作が一時止まってしまいました。見た目では生け花らしく仕上がるのですが、自分が思った風情が表現できない・・・実のところまだまだ今も試行錯誤の途中だなと感じています。

ひとつ思うには、花らしさの生命感を表現するには「物を作る」という作業ではなく「生花を生ける」と言う気持ちの入れ方を加えれば、その作品を見た方により自然を感じていただけるのではないかしらと思います。たいそうな言い方になりますが、造花という素材に命を吹き込むことが出来れば・・・そういう思いが込められればと奮闘しているところです。

第二十八話 造花1 第二十八話 造花2
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第二十七話 (2007年9月)

第二十七話

第二十七話 アップ


お隣の庭に大きな柿の木があります。毎日その木を見ながら仕事へと出かけるのですが、日々季節の移り変わりを見て感じ取れます。

夏場にはおい茂った緑の葉と、その中に小さな実をひっそりと付けています。秋が深まるにつれその実は少しずつ大きくなり、葉も紅葉が始まります。葉が落ちると荒々しい力強い枝ぶりをむき出し、色付いた柿の実がたわわに実っているわけです。

私も日常をくり返す中で、一日一日の成長があるようにと自分に置きかえて考えてみます。昨日よりは今日はまた一歩と・・・そう思いながら努力していくことにより実を結ぶことの大切さを学びます。

また一方では、その年によって実の付き方が良かったり悪かったり。もちろんそんな時も風雨に立ち向かう努力は必要なのですが、時節の状況により実の成り方の違いも認めていかなくてはならないのでしょう。

時代の変化にも対応すること、柔軟な考え方を持つと言うこと・・・柿の実の成り方から学ぶのは、やはり花好きな私だからでしょうか。

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第二十六話 (2007年8月)

第二十六話 正面

第二十六話 オアシス&器 第二十六話 ガラス石 第二十六話 オアシスとガラス石


八月の京都の行事で私の頭に浮かぶのは、お盆の五山の送り火です。山に囲まれた京都ならではの風景は、静かな行事ですが、時間差で次々に火がともる五山は厳かで美しいものです。

子供の頃にはよく、五山のひとつ「大文字山」に登りました。山頂までは30分ほどの道のりですが、途中に沸き水があったりしたのを覚えています。都会からすぐ山道に入り、木々と自然を満喫できるのも盆地の京都ならではですね。

私はやはり子供の時分より植物が好きだったようで、道すがらの木々の葉や枝ぶりを興味津々と見て楽しんでいました。今思うとおかしいのですが、ある時なぜか気に入った枝(思い出すと藪椿でしょか?!緑の葉っぱがしっかりと付いていましたから)をポキリと折り、持ち帰ったことを思い出しました。力強い枝に、夏の暑い時期だというのに葉もたくさん付いているのが、嬉しかったのだと思います。

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第二十五話 (2007年7月)

第二十五話 正面

第二十五話 横 第二十五話 アップ 第二十五話 器にオアシスをセットしたもの


7月に入ると京都の町は祇園祭りムードで盛り上がります。

私の事務所は鉾町の近所なので、より一層そう感じるのかも知れないです。鉾町の旧家では、所蔵の屏風を飾り、宵山にはたくさんの人々で賑わいます。もちろん各家とも屏風の前に花を飾り、彩りをそえます。

花を飾るとは、お客様のおもてなしは基より、そこに自然の風景をも思い起こさせ、情緒豊かな演出になるものです。また生ける家主の優しい心使いなどもそこに見てとれ、私もしばし見惚れる事があります。

そこで思う事なのですが、基、花を生ける行為とは実はとても私的なもので、生け手と花の世界は、生けた本人こそが知り得るもののような気がします。もちろん、そこまで難しく考える必要は無く、きれいだなー、なんて可愛い花!なんて思いながら楽しく生ければいいのです。

でも、出来上がった作品を展示するより前に、生け手本人が一番花で癒され、情緒豊かな時を感じられる贅沢な行為が、花を生ける楽しさの第一だと思うこの頃です。皆様も出来上がりの善し悪しはさて置き、花に向かいあい楽しい一時をお持ちになられてはいかがでしょうか?

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第二十四話 (2007年6月)

第二十四話 1 第二十四話 2


地球環境の変化からでしょうか。
本格的に夏が来たかのような陽差しのまぶしい日が続いたかと思えば、 また爽やかな初夏の陽気に戻ったりと、 年々季節の変わり目が分かりづらくなっているような気がします。
今月の生け花は、夏の趣を二作生けてみました。
いつも私は、まず、多くの要素を取り入れ少し賑やかなぐらいに生けあげます。
花材を多くすると豪華で華やかになり美しいのですが、その作品から「ここぞ!」と思う 部分を取り出してシンプルに生け換えたのが二作目です。
最近思うのですが、いろいろなシーンで「ライフスタイルや物の考え方などをシンプルに!」などとよく巷では言われています。
私がお花を生けるときは、まず一度はたくさんの考え・アイデアを練り上げていきます。そこから自分が思う本当に必要な要素を取り出し生けたものは、結果的にはシンプルな作品に仕上がります。でも、1+1=2の答えと100-98=2は、同じ答えのようで違うのではないかなと・・・生け花にあてはめると後者の方が同じ2の答えでも奥深いと思えるから不思議です。考え過ぎかもしれませんが、巷で言うシンプルという言葉も実は奥深いのではないかと思ったりします。

何だか悟ったような気分の私ですが、100-98=5なんていう計算間違いは多々あるのが本当なのですけどね。

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第二十三話 (2007年5月)

第二十三話


5月、風も爽やかな季節となりました。

最近私の身の回りが変化しだしました。このエッセイが始まった当初はホームページも持たず、広告も出さずに仕事をしていますとお話していました。

が、私はついに、自分のホームページを持つことになりました。
岸 勝人花事務所(http://sky.geocities.jp/hana06kishi)

オールアバウトと言うWebサイトで私のお花の教室を取り上げていただいたことがきっかけなのですが、自分自身もこの情報社会の中、そろそろとは思っていたところでした。実際パソコンを使う仕事も、私のような「花を生ける」というアナログな世界においても確実に増えてきています。

先日、読売新聞にも書かれていたのですが、今の時代情報というものはパソコンをクリックすれば簡単に手に入れることが出来ます。しかし、現代人が今欲しているのは情緒なのではと言う記事でした。

花を生ける仕事をしている私には、まさしくその通りだと感じられました。「花を生ける・飾る」という行為は、仕事でありながら自分自身の癒しにもなっているような気がします。

季節や自然の偉大さを感じるのはもとより、生命を花々から感じながら生けていきますと、優しい気持ちや思いやりの心など、忙しい日常の中では忘れがちな人としての心を教えてくれたりもします。また花で飾り演出された空間からは、和みや静けさ、また凛とした空気を感じ、まさに情緒的な気分になったりもします。

花達から教えられることはたくさんあり、多くの方々にお花を通して感じられる情緒を味わっていただけたらなと思う日々です。

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第二十二話 (2007年4月)

第二十二話 1 第二十二話 2


京都は桜の名所がたくさんあります。

今年は暖冬のため早咲きと言われていましたが、ちょうど開花の頃に冷え込みもあり、桜たちもあたふたとしたのではないかでしょうか。心なしか満開の華々しさに欠けていたように思います。木によっては開花と蕾が入り混じり、まさしく桜たちの悩んでいる姿のようでした。

とは言えやはり桜は、私の心に響く花であることは確かです。特に散り際の花吹雪には、散りゆく寂しさよりも次世代への再生の力強ささえ感じます。

第二十一話 (2007年3月)

第二十一話


桃の節句も終わり、花屋さんの店頭には春の花でいっぱいです。
お花の業界も暖冬のせいか、例年より出回るのが早い花も見られます。

園芸品種と呼ばれるものは、実際温室などで育てられるものも多いようです。
旬の季節よりもいつもお花屋さんの花のほうが季節を先取りしているわけなのですが、私としてはやっぱり、その時季に自然に咲く花にこそ四季を感じます。

近年ますます大きく取り上げられてきた環境問題の影響もあるのでしょうか、自然栽培の花を見直ししている地域もあるそうです。オーガニック野菜ならず、オーガニックフラワーですね。


さて今回の花ですが、玄関やオフィスの受付のような広い空間に飾れるように、少し大ぶりに生けてみました。春らしく、明るい色の花と緑の美しさを生かして表現します。花器も色の薄い、軽やかな雰囲気のものを用意するといいでしょう。

まず枝物の小手鞠を入れ、大体のアウトライン(生けあがりの大きさ)を決めます。この時、前ばかり生けずに全体のバランスも考え、後ろになびくものも入れるようにしましょう。小手鞠の持つ自然な面白い枝ぶりを、なるべく生かすようにしてあげたらいいですね。

続いてグリーンのブプレリウムを、少し動きをつけながら生けていきます。最後にアネモネの花ですが、ここでも花の顔が前ばかり向くよりは、自然ななりにまかせて生けるほうが面白いです。

ちょっと変わったコツですが・・・全部花を生け終わったら、花瓶を回しながら一番美しいと思うところを正面にしてみましょう。そうすると作為的でない「おおらか」な花の姿を見ることが出来ます。

いつも思うことですが、花に無理をさせるよりは花が向きたい方向にゆったりと生けていくと、自然と美しく仕上がるものです。大切なのはゆったりとした気持ちだと思います。私のこうしたい・ああしたい・うまく見せたいという気持ちでは、花も窮屈になってしまいますものね。

第二十話 (2007年2月)

第二十話


例年節分の頃の京都は寒さが一番厳しく、まさに「京の底冷え」の時期です。 しかし今年は暖かい日が続き、春の訪れも早い気がします。

今年は生け花の作品について、毎回お話していきたいと思います。 花を生けるという技術的なことはもとより、ひとつの作品に向かう姿勢や思いなども私 なりに解説していけたらと思います。

皆様にも、花を生けるときの参考になれば良いのですが。

さて今回は、オフィスや自宅の応接のテーブル上に置く花を生けてみました。 まず花器選びですが、テーブルの高さにあわせ、目線の位置を決めることが大切です。 テーブルに置く花は普通上から見ることが多いので、背が高いよりは上から見下ろしたときに美しくみえるよう低めの花器を選びました。私が今回使用したのは、四角形のペン立てです。中にペットボトルの底を切り取り水入れにしました。

花は思いきって短くし、四角の器の中に納まるようにすると、テーブル上でも安定感があります。花材は春の訪れを待ちわびる気持ちから、明るい色を多く取り揃えました。

ここで難しいのは、色と色がケンカをしないように気をつけることです。色を混ぜ合わせるよりは、色ごとにグループ分けするとすっきり見えますね。

こういう時に緑の葉はとても役に立ちます。 緑があると花々の鮮やかな色が、一層際立って見えます。また色とりどりで派手になりがちな時は、落ち着いた雰囲気を作り出してくれます。

春の暖かい活動的な感じを伝えたいので、元気良く花に方向性(春の日差しに向かう植物の躍動感)を持たせると、訪れたお客様にもインパクトを与えると思います。

いつも花を生けていて思うのですが、技術で花を美しく見せようとするよりも気持ちを込めて花と向き合うことで、その花の美しさを引き出せるような気がします。 今回はまさしく歓迎という感じですね。

第十九話 (2007年1月)

第十九話


新年、明けましておめでとうございます。

2007年、21世紀に入ってからは時の過ぎ行くスピードがまた一段と速くなったなと感じられるのは、情報機器などの進化のスピードと比例しているように思います。

そんな中で、私はのろのろと花を生けているわけです。

が、知らぬ間に私の花に対する想いも、少しずつですが確実に変化しているのが最近はよくわかります。命ある花を生ける自分を鍛えることはもとより、花からパワーをもらい自分の生きる道を学ぶ姿勢は変わりませんが、ふと、「生ける」という行為に自分の傲慢さを感じることもあります。

それは、より一層花を素敵に表現したいという思いの表れだろうとは思うのですが、やりすぎてしまうと、命ある花に申し訳なく思うということです。

今年は、その自分の「花を生ける」行為と、花自身の持つ「自然よりの美しさ」のバランスをどう強調させていくかを勉強しなくてはなりません。

自分を前へ押し出すプラス的パワーよりも、マイナス的に引いていくことによって生まれる奥深い、意味のある力強さが表現できる自分になりたいものです。

本年も、どうぞ宜しく御願いします。

第十八話 (2006年12月)

第十八話


京都の町並みもクリスマスデコレーションに彩られ、華やいだ雰囲気です。

私としては、京都の師走を一番感じるのは、歌舞伎の顔見世興行でしょうか。祇園南座のまねきがあがっているのを見るたびに、「今年もいよいよ年の暮れが来たな~」と、毎年のことながらしみじみ思います。

観光都市・京都は、どの季節もそれぞれ見所があり本当に面白く、またさまざま表情から、いろいろなことを感じさせてくれます。
特に最近の私は、京都の「雅な文化」に興味を惹かれています。

寺院も多く、静かで凛としたイメージを持たれる京都ですが、その一方対極にある、祇園町の舞妓さんや芸妓さんのような、華やかな文化の京都に注目しているわけです。

舞妓さんの月ごとに替わる簪(かんざし)などは、装飾の仕事をしている私に多くのインスピレーションを与えてくれます。


12月に入り、装飾的な花を生ける仕事が増えてきました。

クリスマスデコレーションもするのですが、ただ華やかに飾るだけでなく、その中に上質な派手さや、京都の雅な文化を、何かしら自分なりに表現できれば面白いだろうなといつも思います。

まさしく京都ことばで言う「はんなり」とした感じに仕上げる、と言うことでしょうか。
実はこれ、なかなか難しいです。


「はんなり」・・・上品ではなやかなさま。ぱっと明るいさま。主に、関西地方でいう。
                                 (大辞泉より)

第十七話 (2006年11月)

第十七話


いよいよ季節が進み秋も深まり、京都は各地方や海外から観光に来られた方で賑わいをみせています。

どの場面を切り取っても絵になり、紅葉の見所も多い京都ですが、なかでも私は南禅寺界隈がお気に入りです。紅葉越しに見える雄大な山門に、秋だからこその風情でしょうか、いつも以上に奥深い空間美を見ることが出来ます。


紅葉を生けるとき、花は使わず大きな壷に赤やオレンジに色づいた木々をボリュームいっぱいに生けるのも、迫力がありその色付きは妖艶で素敵です。しかし最近私は、その一部の空間を切り取り、小さく秋を表現するのを好みます。街中の色づき見て、私も大きな紅葉した木の枝を買ってみました。

しかしよく水揚げし、いざ使う時に包みを開いたら、先ほどまであんなに綺麗だった葉がばらばらと落ちてしまいました。せっかくの美しい紅葉が・・・と残念に思っていたのですが、その枝に数枚残った様がなんとも風情があり、またかえって秋の深まりを感じました。

あまり作為的に、葉を自分の思いだけで整理して生け花をするより、偶然の出会いだったのでしょうか、葉の残った枝のバランスの良さも気に入り、そのまま生けてみました。小さな作品になりましたが、かえって葉の一枚一枚の美しさも強調され、奥行き感のある花になりました。


たくさんの美しい紅葉風景も、一枚一枚の美しい輝きがあってこそ。自然界とはなるほど、社会のあり方そのものだなと、また自然に教えられた気がしました。

第十六話 (2006年10月)

第十六話


10月、秋のイベントがいたるところで催されます。

私も住宅展示場の新しい家のお披露目に、花を生けました。

現代の住まいは機能的であり、バリアフリーはもちろん、環境や人に優しい家であると感じました。またデザイン的にも面白く、そこに住まう人の個性ある家が建つ時代のようです。

そのような家での生け花のあり方も、大変面白いものです。インテリアとして花を飾るというのは、また違う表現も求められますね。例えば自然の植物のありのままの姿で生けるより、花の持つビジュアル的要素(色や形)で、「生ける」というより「装飾」するわけです。

そんな装飾の中でも、私は常に命ある花に気をとめます。花の生命感があればこそ、無機質になりがちなモダンなインテリアの中にも、優しい自然な雰囲気が生まれると思います。

そこに花があるという存在感が人々を集わせ、また訪れた人々をおもてなしするわけです。

本当に花を飾るということは、私たちの日常における文化であると感じた日でした。

第十五話 (2006年9月)

第十五話


9月になり久しぶりに京都の北、美山へ出かけてみました。

その日は風も涼しく、秋の訪れを感じさせてくれました。秋という季節は、野山の風景を見ていると私にはとても長く感じられます。ほかの季節に比べ、秋の中で草木達が変化していくからでしょうか。

京の北山ではもうすすきの穂が上がり風になびいています。木の葉はまだ緑ですが、秋が深まると紅葉がちらほら始まり、そして木々が実をつけ、やがて葉も落ちてゆき・・・すすきも立ち枯れしていきます。

少し寂しく感じられる季節ですが、熟年期の大人のような秋が私は好きです。どの草木をとっても味わい深く、春に新芽をつけた植物達が、時が経ち風情のある表情を見せてくれます。

「花に学ぶ」という言葉が好きな私は、いつの頃からか秋になるたびに、美しい大人の生き方をそこから学びたいと思うようになりました。

自然に老いていく姿の美しさを思うと、若作りにおしゃれする自分を少し恥ずかしく思います。また、その草木が厳しい冬に向かい力強く生きる様に、まだまだ修行をしなくてはと勇気付けられたりします。


まさに花(自然)に、生き方の哲学を学ぶということですね。

第十四話 (2006年8月)

第十四話


長い梅雨も明け、青空に雄大に広がる入道雲、そして耳に響く蝉の声。
京都の夏は盆地のせいか、夏の暑さもひときわ厳しく感じます。

お花を生ける私も、夏場はあえて花は少なめにそして緑を多く、器には水をたっぷりと張り、見た目にも涼しさを感じるように生けるようにしています。

「水を愛でる」というのも、夏らしい楽しみ方ですね。

京都のお盆は、お仏壇に蓮を生けます。 蓮の蓮台(花が終わった後の実)・花・巻葉(葉が開く前の巻いている状態)で、 人の過去・現在・未来を表しています。大きな蓮の葉に供物を乗せて、 ご先祖様をお迎えします。

そして八月十六日、京都では「五山の送り火」が行われます。 最近はその「五山の送り火」の風情が変わりつつあるように感じます。 花火大会と同じような感覚で見物し、屋台が出たりなどして、少し本来の意味合いが薄れてきているように思います。

送り火を見ながらご先祖様に手を合わせている人の姿を見たとき、 これこそが本来の京都のお盆の終わりだなと思いました。


私は毎年大文字を見ながら、静かにその日を過ごします。

第十三話 (2006年7月)

第十三話


さて今月は、先月までのゆるい生け花に対して対極にも見える「作り込む花」について考えてみます。

基本的に「生け花」と「フラワーアレンジメント」の定義を分けて考えない主義です。和風なものが「生け花」で、洋風なものが「アレンジメント」と思われがちですが、私にとっては花を生ける姿勢はどちらも同じです。

自然の姿のように生ける【ゆるい感覚】そして花葉の形の面白さや、色の組み合わせの斬新さなどを楽しむ【デザイン的な感覚】どちらも生ける気持ちは同じです。

ただ「作り込む花」は、ただ花にまかせるより緻密にバランスをとったり、少しちがう角度から表情をうかがったりします。するとまた違った自然の姿が見てとれたりします。またこれも花の奥深さでしょうか?


いつも花に教えられる私です。

第十二話 (2006年6月)

第十二話


今月は、先月お話した続きで「ゆるい」と言う感覚の奥深さについてお話します。

ただ単に花や木枝の自然な姿をそのまま生けたのでは、少し粗野な感じがし風情がなくなってしまいます。そこで、一花・一枝との対話が始まるのです。

あなた(花)の一番美しい顔はどの角度ですか?あなた(枝)の伸びてゆく力の美しい場面はどこですか?と、花や枝と対話し教えてもらうのです。自分がこう生けたいというよりは、花はどう生けられたいのかしらなんて考えてみます。

それこそが「ゆるい感覚」の始まりだと思います。花との対話(向き合う時間)を、まず楽しむ気持ちが大切ですね。花や枝を手に取りいろんな角度から眺めてみると、やはり生命あるもの、さまざまな表情を私たちに見せてくれます。

どうしても自我を表現したくなるものですが、一花・一枝をゆっくり見る余裕が持てれば、まるで野山で景色を楽しむように「美しい自然の、この場面を生けてみましょう」と言う感じになります。

そういう私も、まだまだ楽しむ気持ちにいたらないことも多々ありますが、うまく花や木と対話出来たときの気負いのない花こそが、私の「ゆるい感覚」の醍醐味ですね。

第十一話 (2006年5月)

第十一話


野山の自然の姿より花の生け方を学んできたと思う私ですが、今年のテーマである自然(じねん)の花を、最近少し見つけたような気がします。

自分の気持ちが生けあがった花に表れるとよく言われますが、花を生ける仕事としている私は、格好いい花を生けたいという欲がどうしても出てしまいますね。

ところが最近になりある緊張感が取れ、気持ちもゆったりと、花も「ゆるく」生けられることが度々ありました。

さて、何が変化したのかは実はよく分からないのです。生けあがった花を見て「さあ、生けたぞ!出来上がったぞ」という気負いが無いのに気付きました。

花が花で美しく・・・生け手の思いばかりが主張する花は、見ていると疲れますね。

ふと「ゆるい花」と言う表現が心に浮かんだのですが、この自分の中の変化「ゆるい感覚」というのをもう少し考えてみたいなと思うところです。

第十話 (2006年4月)

第十話


四月になりお花見の季節。

私も咲き誇る桜花を楽しみます。でも春の生命力の素晴らしさを一番感じるのは柳の新芽ですね。

京都鴨川の河原には桜が咲き、大きな枝垂れ柳に新芽の淡い緑色が一層の春を演出してくれます。私は桜のわき役のような枝垂れ柳こそ、慎ましさの内にある秘めたる力強さを感じ惹かれてなりません。


自分の生け花もそうありたいと思う春の日々です。

第九話 (2006年3月)

第九話


たとえば、先日うどん屋へうどんを食べに行ったとき、レジの横に牛乳ビンにツバキが一輪さしてあった。

それを見たときにね、こんなお花を生けられたらかなわないと思った。

誰が生けたと主張するわけでもなく、そのうどん屋のおばちゃんが、庭に咲いていたし、きれいやから生けたんよと。

無欲な花なんですよね、結局。

技術的には生け花でも、アレンジでもないわけですが、それを見たときに、われわれが苦労して作っているものって、一体何やろうと悩んだ時期もありましたね。

第八話 (2006年2月)

第八話


迷ったときは古典に戻るというのはあります。

昔の生け花ですね。やはり先人に学ぶことは大いにあります。 今一番やってみたいと思っていることは、

「人が生けたとは思えないような花を生けること」

例えば風が運んできたような、とかね。

有名な人が生けたからすごい、というのではなく、花自体がもっている美しさが(図らずも)できちゃった、というような生け花。

第七話 (2006年1月)

第七話


明けましておめでとうございます。

例年年初めの清々しい気持ちのなかで自分の花について考えます。今年は近年の環境問題、温暖化など花木を扱う私としても、今一度生け花や装飾花について考えていきたいと思っております。

植物の自然における姿・形だけでなく、そこに存在する事の大切さを考えるこの頃です。もちろん生活の中に花は癒しや安らぎを与えてくれます。でも無理な、或いは華美な生け花や装飾花は果たして自然に対していかがなものかしら?と考える事があります。

今年はそこにあって、自ら当たり前の生け花を研究していきたいと思っています。

自然(しぜん)と自然(じねん)。

同じ漢字ですが、忘れていた感覚を刺激される言葉です。大切な自然(しぜん)の姿と無理のない当たり前な自然(じねん)な生け花。まだまだ修行は続きますね。


本年もよろしくお願いします。

第六話 (2005年12月)

第六話


前回の桜の木の話の続きになるんですけど、その桜の木を切らせてくれた人が「そこまで思って花を生けてくれるのなら、どんなものでも用意してあげよう。」と言ってくださったんです。

すごくうれしかったですね。

花を生けてその時はもちろんきれいですが、例えば一週間経って枯れていくときに、メンテナンスも必ず自分でしなさい、とアシスタントによく言うんです。

自分で花の枯れ方のなりをよくみなさいと。


きれいなその時だけが花の命ではないと僕は思うんです。

第五話 (2005年10月)

第五話


ちょっと時期はずれな話ですが、ずいぶん前に、有名な桜の木を切らせてもらったことがあります。

高さ4メートルくらいありました。切った時に年輪が分かりますよね。数えてみたらその時の自分と同い年だったんです。 35歳か6歳だったと思います。

桜というのは切ったらそこで終わりなんですよ。でも仕事のためにその桜を切って、ぼくと同じ歳だけ生きてきたその桜を生けるという時に、花の仕事をしていく責任を感じました。


同い年のぼくがおこがましいじゃないですか。


だから、それをターニングポイントに、お花というものは命あるものを扱っているんだという気持ちがすごく強くなりましたね。

第四話 (2005年9月)

第四話


僕はフリーになって15年、ホームページもなければタウンページにも載せないというやり方でやってきました。

すごく京都的な考えなのかもしれませんが、知る人は知っているというやり方。

京都はディスプレーを大切にする文化があるので、お店などに普通とちょっと違う具合に花を生けていると、「あっ、これ誰が生けたの、紹介してもらえますか。」という形で、口コミで仕事が増えてきたということです。

アシスタントはいますが、結局自分で手をかけたいというタイプなので、大きく広げるよりも狭めることによってクォリティーを上げる方向へもっていこうという仕事の仕方をしているのだと思います。

第三話 (2005年8月)

第三話


当時はまだお花の世界に男性は少なかったですね。

10年間その花屋さんで修行をしました。そこで花の流通など全てを覚えました。京都の大きな花屋さんだったので。

そして、生け花を習いましたが、10年経って、形にとらわれない花を生けてみたいと思うようになり、独立したわけです。

フラワーデザインの教室をのぞきに行ったりしましたが、結局何のしがらみもない「フリーの花のスタイリスト」になりたかったんです。

お花とプラスアルファとして、演出を提案できるスタイリストというのでしょうか。

第二話 (2005年7月)

第二話


ぼくはもともとは大阪芸術大学で映像の勉強をしていました。

結局は中退なのですが、映像も空間をどう演出するかという点では、今の仕事にすごく役に立っていると思います。

その大芸時代にハリウッドへ行きました。
ユニバーサルスタジオとかがまだ日本にない時代です。
やはり映像といえばハリウッドですから。

向こうは9月が新学期ですので8月は学校が休みなんですね。
その学生のいない間のカリフォルニア大学の学生寮、ドミトリーって言うんですけど、そこに宿泊して語学研修をしたり観光をしたり・・ 全くの個人で行きました。

できるだけ日本人をさけて。

そのとき、あちらのホテルに飾ってある花の豪華さにびっくりして、帰ってきてアルバイトに行ったのが花屋さんだった、というのが実を言うと花との出会いですね。

第一話 (2005年6月)

第一話


ぼくの普段の仕事は、撮影の仕事や、婚礼の仕事など。
フューネラルではお葬式というより、偲ぶ会とかお別れ会が多いですね。

あとはディスプレー全般。

自分で花の教室も主宰しています。
不定期ですが、「花に学ぶ会」といいまして、先生は花。
だから花に学ぶ会という名前にしたんです。

ぼくは生け花をやっていましたが、形からはいっていくという生け花にはちょっと疑問を感じていましたので、花の美しさを見せるためには、花に学ぶ方が正しいし、美しい花を生けられるんじゃないかしら、と思って。

これからここでぼくの花との出会いや、花に対する想い、今感じていることなんかを書き綴っていきます。

少しでも花を身近に感じたり、やさしい気持ちになってもらえるとうれしいです。